中高野街道を歩く(5) 喜連・瓜破



喜連(きれ)




長居公園通の北側にあり、難読漢字の1つとして有名 である。1798年(寛政10年)刊行の「古事伝」による と、かつては伎人郷とよばれ河内の国に属していた。 のちに久禮と語られ、中世室町時代ごろから喜連とよ ばれるようになった。 古代に呉の国から来た機織の技術者、呉織・穴織等の呉人が、この地に住みついたので、「くれ郷」となり、それがなまって「きれ」になったという説もある。(大阪CITYNAVI ほか)




右は、式内楯原神社です。普段は閑散としていますが、初詣の時期には行列に並ばなければならないほどの混雑振りです。 ちょっと離れた今川に楯原橋があります。



喜連環濠集落のど真ん中にある屋敷小路です。古い民家の建て替えが進んでいるので、いつまでも残しておきたいと思う風景です。 なお、喜連のみならず、瓜破の案内までしていただいた 「喜連村史の会」の活動には感服します。





瓜破(うりわり)




長居公園通の南側にあり、河内国に属した。その語源は (1)道昭法師が当地の庵で祈念の最中、天から光明のさしたご神体が降ってきたので、瓜を割(破)ってお供えした。 ちなみに、道昭は653年の遣唐使船で中国に渡って玄奘(三蔵法師)に学んだ高僧であり、行基の師に当たる方です。 (2)弘法大師が高野山へ登る途中、この地を通り、水を所望したところ、住民が瓜を割(破)ってさしだしたことからこの名がついた。 (以上、瓜破神社の由緒&大阪市WEB)



敬正寺(きょうしょうじ)にある石仏2体。 向かって右側が大日如来です。とってもスッキリとして格好よく見えます。 左側は、格子の影で縞模様になっていて見にくいですが、阿弥陀如来です。



大和川に架かる高野大橋に残された古い写真です。台風により流された橋が200m下流に再建されました。元の橋の跡が川の中に見えます。おかげで、中高野街道は400mほど迂回することになりました。



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